
| 明治3年 (1870) |
4月 | 操山の麓、岡山県病院の附属として岡山藩医学館に始まる。 |
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| 明治13年 (1880) |
9月 | 岡山藩医学館は岡山県病院より分離独立し、岡山県医学校となる。 岡山県医学校病院にて婦人科を独立、原田元貞これを擔任する。 |
| 明治15年 (1882) |
岡山県医学校を卒業するものは別に内務省試験を要しない特権を得た。 | |
| 明治17年 (1884) |
5月 | 岡山県医学校、内山下西の丸に移転。 |
| 明治18年 (1885) |
原田元貞医学校一等教諭産婦人科薬剤科専門医学士と記載あり。 | |
| 8月 | 明治天皇山陽道巡幸、岡山県医学校に行幸。 (昭和11年旧内山下小学校に記念碑建立) |
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| 明治20年 (1887) |
1月 | 第三高等中学校医学部、京都、大阪との誘致合戦に勝ち岡山設置が決まる。 |
| 明治21年 (1888) 【開講元年】 |
1月 | 岡山県病院に婦人科設置、産科診療所を設ける。原田元貞が担当となる。 |
| 4月 | 岡山県医学校を国立に移管、第三高等中学校医学部となる。 原田元貞、産婦人科初代教授に就任、長崎出身、東京帝国大学医科大学卒。 |
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| 5月 | 婦人科入院患者数5名、内科31名、外科51名。 | |
| 明治22年 (1889) |
5月 | 医学部と病院が内山下に建築起工。 |
| 12月 | 岡山医学会雑誌第1号発行。 看護婦産婆養成所設立に際し生徒募集広告掲載。 産婆就学期限1年6ヶ月、18~35歳、授業は午後6時より。 講師名に原田元貞、熊谷省三、瀬尾原始、菅之芳あり。
岡山における開腹術の先達にして、最初の開腹術は「宵越の開腹術」として有
名なりし人なり。
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| 明治23年 (1890) |
4月 | 岡山県立医学校内に産婆看護婦養成所を設立。 |
| 7月 | 原田元貞辞任、新潟市立病院副院長として赴任。 熊谷省三、第二代教授として就任、山口出身、東京帝国大学医科大学卒、原田元 貞の6年先輩。 |
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| 9月 | 岡山で初めて子宮全剔出術を行う。この年前後して京都、大阪でも行われる。
資性謹厳、細事と雖も忽諸に附せず。其医育に従事するや、学用患者の診察尚深夜を厭はず。叮嚀懇到を極め、眼中さらに貧富貴賎の別なく。
屢々診療の為に宵を徹し疲労甚だしきも、蒲柳の身を以ってして毎に之を忍び、曽て
業務を廃することなく、平日の如く依然勤務し、未だ曽て一日も講筵診治を
怠らず、良教師の名籍甚たり。
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| 明治24年 (1891) |
医学部新病院落成(内山下)、西の丸は岡山高等小学校(旧内山下小)に。 | |
| 明治27年 (1894) |
第三高等中学校医学部は第三高等学校医学部と改称。 | |
| 明治33年 (1900) |
第六高等学校開校。 | |
| 明治34年 (1901) |
4月 | 第三高等学校医学部が岡山医学専門学校と改称され独立。 医専在学者数は、1年100人、2年79人、3年106人、4年72人。 |
| 明治35年 (1902) |
4月 | 熊谷省三、51歳にて職を辞し岡山市内にて開業、明治44年病にて没す、64歳。 磐瀬雄一、第三代教授として東京帝国大学医科大学より就任(27歳)、東京出身。 この当時中四国の医学校は岡山のみ。 |
| 明治36年 (1903) |
日本婦人科学会発足。
氏資性温恭にして容姿端麗。思想亦高清潔なり。其岡山にあるや、勤勉にして
有益の論著を出だし、学生其徳に懐き、病者亦其懇切に倚頼するものが多か
りし。
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| 明治37年 (1904) |
2月 | 磐瀬雄一、東京帝国大学医科大学助教授に転任後、東京帝国大学教授となる。 石川又二郎、第四代教授として東京帝国大学医科大学より就任(29歳)、香川出身。 後、相馬家の養嗣子となり相馬又二郎と改姓。 |
| 明治38年 (1905) |
日本婦人科学雑誌を発行。
資性温雅篤学にして沈毅なり。岡山医学専門学校教諭に任ぜられ、産婦人科
を擔當し名声大に揚る。
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| 明治39年 (1906) |
3月 | 石川又二郎、東京帝国大学医学部に戻る。 |
| 4月 | 佐藤松介、第五代教授として東京帝国大学医科大学より就任(29歳)、山口出身。 佐藤栄作元総理夫人の父君。
氏資性隷悟、気概あり。特に自信の念強く、時に傲岸不遜の人と誤らるる事あり。其岡山医専に転ずるや学生を訓陶し、病者を診察すること極めて懇切にして頗る人望あり、業績亦少なからず。
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| 明治43年 (1910) |
4月 | 後、東京帝国大学産婦人科教授となるも、健康優れず急性肺炎にて逝去、47歳。 |
| 6月 | 岡林秀一、第六代教授として京都帝国大学医科大学より就任(27歳)、奈良出身。 講義は午前7 時開始。 教室員5人程度、外来患者30人、入院患者35人前後。 子宮筋腫手術35円。麻酔はエーテル、クロロホルムの吸入麻酔。 患者受け持ちにmit制採用、妊娠暦速算器考案。
岡山医学専門学校教授に任命せられ、勤勉努力、名声大に揚る。資性温謙、篤学にして其学生を教授するや懇篤、其論嶄新にして其説明能く学生に透徹す。
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| 大正3年 (1914) |
8月 | 岡林秀一、京都帝国大学医科大学助教授として帰る。 京大にて子宮癌岡林術式完成。 安藤畫一、第七代教授として京都帝国大学医科大学より就任(27歳)、大分出身。
資性頴温謙にして篤学、頗る明快なる頭脳を有し、弘く成書を渉猟し研鑽怠りなく、又能く門生を示導し有益なる論著を公にし意思堅実にして手腕の人なり。
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| 大正7年 (1918) |
関場代五郎、講師就任。 | |
| 大正9年 (1920) |
11月 | 安藤畫一、海外留学。 留学中に原正平教授、次いで大原盛三教授就任。 |
| 大正10年 (1921) |
関場代五郎、初代助教授就任。 教室員は5 ~ 6 名、トロパコカイン使用による脊髄麻酔が行われる。 |
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| 大正11年 (1922) |
8月 | 岡山医学専門学校から岡山医科大学となる。 安藤畫一、海外留学より帰る。 |
| 大正12年 (1923) |
中四国のセンターとしてレントゲン、ラジウムによる子宮癌放射線治療開始。手 術療法、放射線療法の二本柱体制整う。 | |
| 大正13年 (1924) |
関場代五郎、学位取得第1 号、論文は「子宮内膜の研究」。 | |
| 昭和8年 (1933) |
10月 | 熊谷蔵之介、助教授就任。 |
| 昭和9年 (1934) |
4月 | 安藤畫一教授、慶應大学に転任。20年間在籍。 |
執筆者 福井 秀樹
(昭和45年入局)