
八代 八木 日出雄
| 生年月日 | 明治三十二年八月十八日 |
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| 出身地 | 兵庫県 |
| 出身校 | 京都帝国大学医学部 |
| 在任期間 | 昭和九年四月-昭和三十三年十一月 |
| 転出先 | 昭和三十三年 岡山大学長 |
| 昭和9年 (1934) |
4月 | 新進気鋭の若手教授として、八木日出雄(35歳)が京都大学より第八代教授として就任。 また、岡山県衛生会産婆看護婦学校長を兼任。この時代から教室特有の詳細、 確実なデータの集積が始まる。臨床医学は地味な労力の土台の上にこそ初めて開花するものであるという、 原則的な考え方は今もなお守り続けられている。 |
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| 昭和10年 (1935) |
4月 | 八木日出雄教授、第33回日本婦人科学会宿題報告を担当「新生児の病理に関する研究」。 |
| 昭和12年 (1937) |
5月 | 橋本清が助教授に就任。昭和16年7 月、旅順医専教授として転任するまで陰に陽に八木日出雄教授を補佐した。 |
| 10月 | 第1回国際温泉学会に日本代表として出席(ブルガリア)。 | |
| 昭和14年 (1939) |
8月 | 医学会講演のため満州国および中華民国に2 ヶ月出張。 |
| 昭和15年 (1940) |
医局員16名。教室でも種々の物質の統制を受け、研究および診療に多大の不便があった。八木日出雄教授の指導で、岡山医大産婆同窓会が誕生した。 | |
| 昭和16年 (1941) |
第12回同門会総会で八木日出雄教授は、帝国興亡の岐路において教室員は減少の一路を辿っているが、たとえ教授一人になっても大学の使命として研究を持続する覚悟を示される。 | |
| 12月8日 | 大東亜戦争始まる。 | |
| 昭和18年 (1943) |
第二次世界大戦の最中に開講10周年記念行事が盛大に行われた。 八木産婦人科婦人科学編発刊。 |
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| 昭和19年 (1944) |
医局の人々も殆ど招集され4 、5 名程度となる。 | |
| 昭和20年 (1945) |
5月 | 空襲で危ないということから、皮膚科泌尿器科の外来および医局が婦人科と同居することになり、医局、研究室も半分ずつとなる。 6月29日の岡山空襲で市中心部は潰滅、皮膚科泌尿器科が消失したため、 この状態は皮膚科泌尿器科の木造建物ができる昭和25年頃まで続けられた。 |
| 6月10日 | 湯浅裕が出征。後は八木日出雄教授、中村真太郎助教授、 女医の秋山の3名となる。空襲で秋山医員が直撃弾で亡くなった後は、人手不足はその極みに達し、 電話不通もあって八木教授自身が教授室で当直するありさまであった。 | |
| 8月20日 | 高知床志が復員する。それまでは、八木日出雄教授、中村真太郎助教授が全教室 員という異常な状態であった。 | |
| 昭和21年 (1946) |
産科は一時従来の看護婦寄宿舎に移され、昭和24年まで婦人科の病棟から離れていたため不便この上なかった。次第に復員する医局員も増え、年末にかけて医局は次第ににぎやかとなった。 しかし、当時は食料事情が悪く医師、看護婦、患者のすべてが病室廊下で自炊していたため建物の内部は真っ黒となり、外部も戦時中空襲を避けるため真っ黒に塗られていたので建物全体がすすけた黒色となった。 | |
| 昭和23年 (1948) |
2月 | 橋本清講師、助教授に就任。 |
| 昭和24年 (1949) |
岡山医科大学から岡山大学医学部となる。 | |
| 昭和25年 (1950) |
この時期には入局者も多く、一度に20名近い医師を迎え、一時は臨床修練の患者 不足をきたした。 | |
| 昭和26年 (1951) |
8月14日 | 岡林式広汎性子宮全摘術の例数が1,000例に達する(八木日出雄教授着任以来17年5ヶ月)。 同じ日をもって放射線療法は2,212例を数え合計3,212例の治療数となる。岡林術式の国際的評価向上。 |
| 昭和27年 (1952) |
3月 | 第4回日本産科婦人科学会を岡山市公会堂で開催。主催者は岡山県地方部会。
参加者は学会員1,200名、会員外200名の計1,400名で、産婦人科学会始まって以来の大盛況であった。 橋本清助教授、演題名「子宮癌の予後に関する研究」で宿題報告。 秋本若二講師、学会賞論文「日本婦人の羊水量に関する研究」。 |
| 昭和29年 (1954) |
八木日出雄教授、開講20周年記念事業。 八木日出雄教授、国際産婦人科学会常任理事に就任。 |
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| 昭和30年 (1955) |
3月 | 斉藤浩講師、学会賞論文「性ホルモンの婦人基礎新陳代謝に及ぼす影響並びにホ ルモン療法の臨床的検討」。 |
| 6月 | 八木日出雄教授、岡山大学医学部附属病院長に併任。 八木日出雄教授、岡山大学医学部附属助産婦学校校長に併任。 |
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| 昭和31年 (1956) |
11月 | 八木日出雄教授、第49回台湾医学会で特別講演。 |
| 昭和32年 (1957) |
4月4~ 6日 |
八木日出雄教授、第1 回アジア産婦人科学会会長(東京産経会館)。 |
| 6月21日 | 岡林式広汎性子宮全摘術の例数が2,000例に達する。 | |
| 7月28日 | 第26回同門会総会にて子宮頸癌2,000例祝賀記念式を行う。 | |
| 8月 | 八木日出雄教授、岡山大学医学部長に併任。 | |
| 昭和33年 (1958) |
5月 | 国際産科婦人科連合主催第2 回世界大会(カナダ)に日本産科婦人科学会代表と して出席。第7 回国際癌学会で講演(イギリス)。 |
| 6月 | 八木日出雄教授、岡山大学長に就任。 | |
| 11月6日 | 八木日出雄教授、「産科学における岡大教室の貢献」と題して最終講義を行う。 | |
| 11月7日 | 八木日出雄教授退官。 | |
| 昭和38年 (1963) |
10月19~ 20日 |
八木日出雄前教授、日本癌学会総会会長。 |
執筆者 児玉 順一
(昭和60年入局)